東京ガジョピント

日常と非日常のスキマに生息しています

「学ぶ」とは自ら進んで何かを感じ取り、自分のものとして吸収することである

本の学校教育に対する一つの疑問です。

入学と同時に教師が課題を与え、生徒がそれに答える。学ぶための場というよりも、説明書の内容を伝える機会のような印象です。だいたいが学校の先生も「指導要綱」という教師向けの指南書が用意されており、各課題をクリアせねばならないという使命があるのです。

学校教育を否定したくはないが「学ぶ」という行為のみに関して言えば、やっぱり自ら考えて工夫する力が養われているとは言い難いです。小学校から高校までをこんな教育環境で過ごせば、自ずと受け身の姿勢が研ぎ澄まされ、ある種の優等生にはなるが自ら考え発明していく力は、多くの生徒たちには芽生えもしないでしょう。

ところが大学生になると状況は変わります。

卒業時に論文を書かねばならない。今まで自発的に何かを探してこなかった人が、或る日突然自由に研究をしても胃と言われても、何もできない。身近な事象に対して「気づく」ことができなくなってしまったのです。

自分で考えることの大切さ、学び続ける大人になるためには、これまでの教育に疑問を感じなければならないということを学びました。